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上野の西郷さん

2018.04.02

私が鹿児島(薩摩)出身のせいか、患者さんより「何故、西郷さんの銅像が東京上野にあって街の方を向いているんですか?」と尋ねられる事があります。

慶応4年(1868年)に勢いに乗る新政府軍(総司令官 西郷隆盛)が3月15日に徳川幕府に総攻撃をかけることが決定されました。西郷自身もその意向をもっていました。決行日が間近に迫った日、港区田町の薩摩藩江戸藩邸に幕臣である勝海舟が訪れました。(二人は旧知の間柄であり、勝は幕臣ではあるが、立場をこえて日本の将来を憂えている事を西郷は知っていた。)

 

勝は戦になれば、どれほどの人が亡くなり江戸中が火の海になることを切々と語ります。勝ちにのる新政府軍は、ほとんどが決行すべしの考えです。いくら西郷でも、それを止めることは難しい。二人の間に、しばし沈黙があったと思われます。そして西郷が「わかいもした。(わかったということ)」と言った。江戸無血開城が実現しました。これは西郷、勝、の人物また胆力がなしえた事でした。他の人物では、はたして成しえていたか?

 

江戸の人達は、どれ程感謝したか。その感謝の思いが西郷さん銅像建立という形になったと聞きます。

今も鹿児島では、西郷さんのことを西郷と呼び捨てにする人はいません。

 

西郷さんについて簡単に述べてみました。

 

勝海舟(幕府側)もいざ戦という形になったら、みずから江戸に火をかける覚悟だったようです。

太っか(胆の座った)男同士の生き様。すごか男がおったもんじゃ。

 

伊牟田